ある男はこう言った
【一つの悟りは、○○だ】と
わたしにとっての悟りとは【一つ】である
けれども悟ったと感じた真の至福体験と体感の
ゼロの涙は
たった1時間ほどのものだった
悟りや覚醒や至福
この言葉を自身の中に多用する割に
皆、悟りや覚醒という言葉の使用からは逃げるのです
だれが釈迦をお悟りになったと
崇めたのでありましょう
【35歳、人より先に進み得た偉大な存在だった】のです
また、誰が悟りを目に見える形とでき得るのでしょうか?
わたしの知り得た1時間の悟り=至福✴︎苦悩の時は
(もしくは誰かの知り得た悟りの境地は)
誰が知り得るでありましょう
至福や苦悩にある境地を言葉にできますか?
いえ、あの時のわたしにはできませんでした。
悟りや至福とは無言である
虚無である
そこに言葉は一切不要となるからです
仮にそれが真の【悟り】だったとしてもまだ余生がある
それではどのように余生を生きて見せましょう
化けて生きる他、心静かに3次元世界を自由自在に飛び遊び楽しみ生きる他、天に召されるまで生かされる方法はありますでしょうか?
また生かされているうちは学びでありますが
けれどもその学びを超越していた
至福体験と体感が一つとして確固たる知り得た
体感と在り方に揺るぎを魅せることがないとしたなら
その学びはどのように功を成しますか?
悟ったことを【証明】できる者に
是非唱えていただきたいものです
わたしには言葉はなく一つの曲しかありませんでした
なにもなかった…
悟りとはそれだけではないのか
なにもなかったから
【至福と苦悩である】
以外の言葉はあの時のわたしにはみつからなかったのです
だから言葉であの神聖な想いを汚すことは
でき得ません
Tiara✴︎Yoko


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